PROJECT 声優の専門学校に通いプロの声優になりたいプロジェクト

現在の支援状況
目標金額
¥732,000
現在金額
¥10,000
※1ヶ月に1度更新しています。
児童養護施設でみた夢をもう一度

大人の事情で4度も児童養護施設を転々とした私
辛くても 悲しくても 裏切られても
私は負けない 
だってこれが私だから This is me

【声優の専門学校に通いプロの声優になりたいプロジェクト】

目標金額: 732,000 (スクール費用、家賃1年間分が含まれます)
【目標金額の内訳】
■家賃 1年間:432,000円(光熱費含め)シェアハウス
※本音を伝えると
声優の練習をするため防音性がある部屋を探したいです。

■スクール料金 学校名は伏せさせていただきます。
入所金 : 100,000円
年 間 : 200,000円
合 計 : 300,000円

関根ひろみの本気の挑戦が始まります。
※こちらの投稿につきまして、本人の了承を得て投稿をさせていただいております。

〈関根ひろみ の生い立ち〉

託児所 (3歳の頃)

一時保護所(3歳の頃)

児童養護施設(4歳の頃/幼稚園 年中)

児童養護施設(5歳の頃/幼稚園 年長)

家(5〜7歳/幼稚園 年長〜小学2年生)

一時保護所(7歳/小学2年生の頃)

児童養護施設(7〜14歳/小学2年生〜中学2年生)

家(14歳/中学2年生)

一時保護所(14歳/中学2年生)

児童養護施設(14〜17歳/中学2年生〜高校3年生)

アメリカ(18歳/高校卒業後)

現在(20歳/夢に向かって)



 

大人によって人生を狂わされた私

だからこそ心の中にどんなことも跳ね返す強いバネが備わった

夢を叶え同じ環境下の子供たちに希望の光を見せてあげる

 

 

彼女の生い立ちを一部ご紹介致します。

 

【弟との出逢い】
私には父違いの兄弟が10人います。
そのうち私が顔と名前をはっきりと覚えているのは、たったの1人だけです。

3つ下で5番目の男の子です。
そう私の今までを語るには欠かせない人物なのです。

私が児童養護施設を知ったのは3才の頃でした。
母が私と弟を託児所に預けたきり戻って来なかったのです。
私はその時の景色を鮮明に覚えています。


最初に行った児童養護施設の時は、いつも同じユニット(部屋)の男の子達にいじめられてました。

毎晩、いろんなことが葛藤して枕を濡らしていました。

しばらくして、顔を覚えているたった1人の弟が乳児院から措置変更となり、同じ施設で暮らせることになりました。
これでもかってぐらい嬉しかったのを今でも覚えています。
再会した日、嬉しい気持ちの反面、何だか照れくさかったです。

弟と一緒の施設で暮らすことになり、弟にも年上の子達からの洗礼(施設特有のいじめ)を受けました。助けたいと思っても、怖くて体が動きませんでした。施設の職員にも伝えましたが、さらに見えないところでいじめが過激になりました。

 

【金髪の自称父親と名乗る男】
5歳の時、私と弟は別の施設に措置変更となりました。
当時、私は5歳で弟は3歳でした。

小学校に上がると、とつぜん髪を金髪にした自称父親と名乗る男が施設に来所してきました。
それからというもの、男と再婚者である女が私たちに頻繁に会いにきました。
今でも覚えているのが、タバコと香水の匂いがひどく、ジャラジャラとアクセサリーを身にまとっていました。
正直こんな人たちが 家族だなんて信じられませんでした。
しばらく面会をしたのちに、措置解除となり、弟を含め一緒に暮らすことになりました。

 

【家での生活】
この人達との生活が始まりました。
この家のルールは、言うことを聞かないと手や足が飛んでくるのです。
少しでも彼らの気に触ると怒鳴られます。

この人達は酔っ払うと機嫌が悪くなり、私達の前だろうがお構いなく罵声を浴びせ、殴り合いを始めます。
とても怖かったし、私は弟が巻き込まれないようにすることで精一杯でした。

再婚相手の女には、2人の子供がいました。
1人は私と同い年の男の子で、もう1人は奇遇にも弟と同い年の男の子です。
だからか愛情の差が余計にはっきりと違うことがとても悲しかったです。
この女も男同類で、気に触ると怒鳴り殴ります。

家での生活で、私も弟次に笑顔を忘れてしまいました。
心が冷たくなる感覚に襲われ、生きれるか死ぬかの日々が続きました。

小学2年生の時、生きるというのが当たり前ではないことを全身で理解しました。
自分で選択しないと生きることを許されなかったからです。
弟は精神的なものが身体に現れやすい体質でしたので、おねしょをよくしました。
その度に彼らは弟を怒鳴り、殴りました。
今思い出すだけでも心が苦しいです。
まだ幼稚園児なのに、こんな仕打ちが毎日続くのでした。
私は彼らの視覚に入らないようにそれを見ているだけでした。

彼らの言うことをきくだけのロボットだったなと今思うと感じます。
ただそこには自分が殴られなくてよかったと思う感情だけでした。

それからしばらくして、女が今の生活に限界を感じたのか、自分の子供を連れて家を出て行ってしまいました。
そして、私が小学校から帰ってくると弟がいなかったのです。
冷えきった感情が急激に焦りに変化し、男が帰ってくるのをずっと待ちました。
男に聞くと「一時保護所に預けた」と言いました。理由は、弟はまだ幼稚園児で面倒がかかるからとのことです。
私は男に、「家事をするから。言うこともっと聞くから。弟を戻して、お願い」と泣きながら言いました。

男に連れて行かれる時に弟は泣いていたそうです。
あまりにも泣くものだから、男の使っていた鞄をあげたそうです。

私は崩れるように泣き続けました。
たった1人の大事な家族と離れ離れになってしまいました。
きっと私が弟を助けなかったからバチが当たったのだと思うようになりました。
みんなが寝たときに抱きしめる事はいくらでもできたのに、それしかその時にはできる事はなかったはずなのにと思い、また心が凍り始めました。

とっさに男に、私も施設に行きたいと言いましたが、許してはくれませんでした。
いつもそばに居た弟はもう部屋には居ませんでした。

唯一の支えだった弟を失い、また一人ぼっちになってしまいました。
弟のいない私は抜け殻のような状態でした。

それから数日後、私は出て行った女と会うことになりました。
私は弟の所に行きたいお願い、とお願いをしました。
すると女は携帯電話をバックから取り出し、男に電話をかけました。
「この子を施設に預けたら(家に)戻ってきてやるよ」と男に言ったのです。
男は女の一言であっさりと私を児相の職員に会わせてくれたのです。

こうして1年間という長い生活から抜け出すことができました。

 

【保護された私たち】
一時保護所で弟に再開することができました。
1週間ぶりの弟は笑っていて思わず抱きしめてしまいました。
照れくさかったし、恥ずかしかったけどそれ以上にまた一緒に居れることが嬉しかったのです。
弟はまだ幼かったので日々の生活は別々でした。それでもご飯を食べる時やお風呂の時間には顔を合わせることができました。
あの劣悪な環境下の生活の後の一時保護所はなんだか楽しかったです。
自由がない閉鎖的な場所だけど、職員の人たちは面白かったし、安心できると思える場所だったなと感じました。

 

【3度目の児童養護施設】
それから私と弟は児童養護施設に措置変更しました。
以前の施設とは違い、弟は順調に周りの子と仲良くなりました。
私も年の近い子達と生活していくにつれて、家での辛い記憶は次第に薄れていきました。

弟が小学生に上がり、私が小学4年生になったその年のクリスマスのことでした。
あの男と逃げた女が私達の施設にやって来たのです。
とても怖かったので、担当の施設職員に会いたくないと伝えて帰ってもらいました。
これを機に頻繁に手紙や買ったものを送りつけてくるようになりました。

それ以来、施設には来ないで欲しいと児童相談所の職員に伝えました。
ですが、不思議なことに1度会ってみてもよいかなという気持ちになり思い切って面会をしました。
面会をした時は「心配していたよ」、「いつでも頼ってね」、「愛してる」と言われ驚きました。
何度か面会するうちに次第に警戒が溶けていき外食をするようになりました。
外食の時も常に優しい言葉を私と弟にかけてくれ、欲しいものをたくさん買ってくれました。
まるで別人みたいに、男と消えた女は、「かわいそう かわいそう」と私達の頭を撫でました。

それから数年が立ち、私が6年生になり、弟が3年生になった時のことでした。
男が施設に面会に来て、私と弟を外食に連れ出しました。
車の後部座席に座っている私達に不意に男は言葉を発したのです。

「今後、お前たちは離ればなれになるんだよ」
家族じゃなくなるとか、一緒に暮らせないとか言っていたが頭が真っ白になって私と弟は一言も言葉を発することができませんでした。
またここで嫌だと言ったらまた殴られるかもしれないと思ったからです。
でも児童相談所の担当職員に思いを伝えればきっと何とかしてくれると思いました。
そう思って私は隣に座っている弟の手を強く握りしめました。

【離れたくない】
当時、弟と私は別のユニット(部屋)で過ごしていたので弟がいつ誰と何をしているのか把握することができませんでした。数ヶ月後、同じ施設の子から弟が里親っぽい人と頻繁に会っている事を耳にしました。
内心信じられない気持ちでいっぱいでした。
私は怒りに任せて施設職員に弟に会いに来ている人が誰なのか聞きました。
ですが答えられないの一点張りでした。
仮に里親なら私も弟と一緒に里親になると、何度も伝えました。
そんな事が続くうちにどんどん私と弟の距離が離れていき、私は焦りを覚えました。
家に帰ったら弟が居なかったあの時の心情が蘇ってきました。
本当は、弟に頻繁に会っている人が誰なのか、どう考えているのか、私のことを家族だと思っているのかを聞けばよかったのですが、なぜか怖くて聞けませんでした。

中学に上がり、私は軽いいじめに合うことになりました。
心身ともに疲れ、学校を休み部屋に引きこもるようになりました。
施設職員にも不満を抱くようになり喧嘩をすることが多くなりました。
何だか全てがうまくいかなかったのです。

そして、恐れていたことがやってきました。
弟が施設を退所することになったのです。

ドアをノックする音が聞こえ、職員が部屋に入ってきました。
弟が退所するから見送りにおいでと私に言ってきました。
「見送れるわけないじゃない。ふざけないでよ」 この言葉さえ、口に出すことができませんでした。
部屋の窓から外を見ると、弟が車に乗り施設を去るのが見えました。
私は項垂れ、目の前が歪み、大粒の涙が床に落ち小さい水溜りができました。
大人の勝手な都合で、私の大切な弟を失ってしまったのです。

【誰も教えてくれない】
何で離ればなれにならなくてはならなかったのかを誰も教えてくれませんでした。
ここにいる意味も、生きてる意味も、一瞬にして消えました。
それからまた心が凍り始めました。
施設でよく笑ってよく喧嘩してごく普通の毎日を送れてこれたのは弟がいたからでした。

この機会を狙ったかのように、あの消えた女は私をよく外食に誘ってくれました。
女は外食中に何度も、「家に戻っておいでよ」と言いました。
それまでは断ってやり過ごしていたのだが、ある日、私は施設の職員に無断で女に電話をかけ家に行く事を決めました。
学校を休み、鞄1つ持って外に出ようとした時、担当の施設職員が私に声をかけました。
「帰ってくるんだよね」私は返事をせず施設を後にしました。

【彼らの家】
中学2年生の時、転校早々に虐められるようになりました。
失うものがない私は、虐めていたグループのリーダーを引っ張り出し一方的に言いくるめました。
翌日、学校へ行くと虐めがパッタリと止んだのです。

ある日、リストカットをしていることが女にバレてしまいました。
女と口論になり包丁を突きつけてきたのが記憶に残っています。

私は女に「もうこんな生活は嫌、施設に戻りたい」と伝えました。
もうどこにいても辛かったので、施設の方がまだましだと思いました。
女に伝えた後、私はお風呂に入りました。
少しすると男が酔っ払って帰宅しました。
男が女から施設に戻りたいという話しを聞くと、顔色を変え、怒鳴りながら、お風呂場に近づき、ドアを力一杯蹴ったのでした。
ガラスのドアは割れ、ガラスの破片がお腹に突き刺さりました。

【ふただび一時保護】
保護される前に男に言われた言葉を今でも覚えています。

「二度と顔見せるな」

この言葉の背景には、辛くて、悲しくて、死にたくなるようなことを、この男にさせられていました。

私の人生の中で逃げることを許してくれません。
一時保護中も、保護所で担当の職員とたくさん喧嘩をしていました。
もう誰も信じられなかったからです。
大人が言ってることは全部嘘だと決めつけていました。
誰も子供のことなんて本気で考えていないと思っていました。

【4度目の児童養護施設】
3の最後の年は、受験も控えていて志望校には誰もが受からないと決めつけていたようでした。
信じられるのは自分だけ、自分だけを信じ勉強に励みました。
そして志望校に無事合格することができました。

入学したのはよいが、学校生活にも馴染めず、表面だけの友達付き合いをしているようにしか思えなくなりました。
また担任とも揉めることが多くなりました。

私は大人というのは自分勝手で汚くてすぐに裏切る生き物だと思っています。
私はこの時、生徒を代表して大人に対して不満を伝えられる立場になろうと考えました。
ですので学級委員になったり、文化祭実行委員にもなりました。
私が発案した文化祭の出し物は、一般市民投票で学年1位となりました。
担任もこの時ばかりは、自分が賞を獲ったかのように喜んでいたなと記憶しています。
その頃から私は施設で生活している事をクラスのみんなに隠すようになりました。
親がいないというだけでなんだか負けている気がしたからです。
虐待児だという事、生き別れた家族がいる事、全部がコンプレックスとなり押し寄せてきました。
当時は本音で話せる人がいませんでした。

【信頼できる人との出逢い】
私が転機を迎えたのは彼に出会ってからです。
児童養護施設のプログラムで関東の高校生を対象に海外研修があるという話を聞き、私はそれに参加しました。
海外には行った事がなかったし、自分の知らない世界を見てみたいと思ったからです。
海外研修は毎年やっているそうで、私のいる施設でも数名が参加していました。
アメリカの一般家庭に1週間家族の一員としてホームステイして、海外の文化や生活を学ぶというものでした。

私を迎え入れてくれたホームステイ先はとても優しく温厚な家庭でした。
常に私の様子を気にしてくれ、話しかけたそうにうずうずしていました。
私はそれが少し嫌でした。
偏見ですが、アメリカ人ならもっと積極的でダイナミックに絡んできてくると思っていたからです。
ですが彼はおっとりしていて、とても心配性でした。
私が今まで出会って来た大人とは全く異なり、困惑してしまいました。
私が見てきた大人は自分勝手で薄っぺらくてすぐに怒鳴って殴るような人達です。
泣いても誰も助けてくれず、大事なものばかりを奪っていく人達です。
そんな複雑な気持ちを抱えたまま、海外研修も終わりに近ずいた土曜日のことでした。
ホストファミリーが主催するホームパーティーに参加しました。
ですが空気感に馴染めず、そんな私をみんなが気を使ってくれるのでした。
そんな行動に耐えられず、私は途中で退席してしまいました。

私にとって彼らはあまりにも優しすぎました。
初めて知る景色で眩しすぎてこんな家族が世の中にはいるんだと思いました。
どんどん自分が生きてきた人生が悔しくて悲しくなりました。

部屋に戻り少し経った時、ノック音がして部屋の扉が開きました。
そこにいたのは彼でした。
ホームパーティーを抜けて、心配して来てくれたのです。
そして彼は私の隣に座り、つたない日本語で懸命にどうしたのと私に訪ねてきたのです。
私は彼の誠実な行動に涙が止まらなくなりました。
このアメリカ研修は、笑顔でやりきっていつも通り楽しかったなで終わるはずでした。

ホストファミリーに迷惑をかけてしまい、ホームパーティーを台無しにした私を彼は優しく抱きしめてくれました。
突然の事に踊ろきましたが、私のことを家族の一人としてみてくれているのだと思いました。
研修の最終日、私はホストファミリーに初めて家族がいない寂しさを伝えました。
同情が欲しい、家庭が欲しいことなど、包み隠さず話してしまいました。

【私の大切な家族】
日本に帰国してから後日後のことでした。
彼が私に会いに日本に来てくれたのです。
私は驚きが隠せませんでした。
彼は通訳者として古くからの知り合いである日本人の女性を紹介してくれました。
通訳として知り合った彼女も、今では私にとっては心の支えになってくれています。
彼は私のことを娘だと言ってくれた。
そして家族なのだと言ってくれました。

あの時に私が流した涙と、私が伝えた気持ちが彼のこころを揺れ動かすキッカケとなったそうです。
アメリカには人助け、支え合うと言う文化が根強いと聞きます。
しかし、彼のように異国の人間を家族のように支えてくれるのは珍しいそうです。
書類上では家族関係にはなれないが、心の中では家族なのだと長く付き合うようになって思うようになりました。

私は17歳で施設を出て1人暮らしを始めました。
父の希望もあって、1年遅れて高校を卒業した私はアメリカに留学する事にしました。
父にはプロの声優になるたには役者の勉強もしないといけないことを伝えました。
アメリカで暮らすという事になり、父と母は喜んでくれました。
予定では5年間の滞在を予定していました。
ですが、5年間の語学を学びながら役者の勉強をするのは遅すぎるのではないかと感じてきました。
遅咲きや役に年齢は関係ないという人もたくさんいましたが焦りだけが先行してしまいました。
今活躍している声優は子供の頃からキャリアを積んでいます。
本当に光るものがない限り、年齢は自身の重りにしかならないことも知っていました。

それからクラスの生徒達のモチベーションの差にも愕然としてしまいました。
私は両親の気持ちに応えたいという理由もあり、アメリカで学ぼうと思い来たわけですが、周りはキャビンアテンダントになるために来た人や、大学を卒業したが世界で自分の価値を確かめたくて実費で来た人、そんな人たちと一緒に勉強している自分がとても情けなく思ってきました。
私は両親に甘えるために、愛・家族を感じるためにアメリカに来たように考えるようになりました。

そんな浅はかな考えだったものだから、勉強が身に入らなくなってきました。
こんな調子では周りの人に迷惑でしかないと思った私は、その気持ちを父に伝えました。
父は私のわがままを受け入れてくれました。



【日本に帰国】

私は名古屋に住むことに決めました。
理由は関東以外の暮らしがどんなものかを経験したかったからです。

児童相談所の援助もあり生活保護を受け生活することになりました。
夢が途絶えてしまったことや、心の病気により引きこもりが続きました。

ご飯も口にできない日々が続きました。
周りの人に助けれ、少しずつ食事を取れるようになりました。

父に出会って自分と向き合うようになって、世界がずっとずっと広いことに気づきました。
名古屋では、社会というものを学びました。
就活や実際に営業をすることもできるようにまで成長しました。
生活にも慣れていき、もう一度、声優になるための計画を立てました。

【男からの手紙が私を狂わす】
20歳の1月に、人生を狂わされた男から一通の手紙が届きました。
なぜ私の住んでいる住所を知っているのか、また人を信用できなくなりました。
中学の時に分かれて6年も経っていた手紙の内容とは、「分籍してほしい」これだけの内容でした。

一言でこんなにも心を掻き回されるのかと気が狂いそうになりました。
住んでいる所在地が知られていることへの恐怖だけが先行して、逃げてしまいました。
職場を紹介していただた方に対して、本当に罪悪感でいっぱいであったが、
それよりも恐怖心が勝ってしまいました。

【私にできること】
感謝と申し訳なさをたくさん詰めて私は東京に戻って来きました。
もう一度、夢を叶えたいと思えるようになりました。

手に溢れる沢山の宝物と出会った人たちの応援を抱えて今の私がいます。
もうこれ以上自分が悲しまないように、もうこれ以上私のような子を増やさないように私は夢を叶え同じ環境下にいる子ども達の光となります。

そう私は今を生きています。

プロジェクトに関してご寄付をお受けしております。

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